豊中にも、渡し場・船着き場が在った。

人・物の移動 ( 年貢米・農産物・生活用品・農具など商品の搬出 受入れ・多田銀銅山の鉱石・寺社への参詣など ) は川を渡らねばならないし、大量の荷物は船に頼ることになります。 帆をあげて神崎川をのぼる三十石船。大正13年(1924)頃、対岸は現在の豊南町東です。 [![三十石船②size320](images/ha00216/T_00216370_010001.jpg)](images/ha00216/T_00216370_010001.jpg) <font size="4">「とよなか歴史・文化財ガイドブック」等をもとに紹介してみます。</font> 『目いぼの渡し碑 ( 小曽根の渡し )』 場所は、高川が神崎川と合流する付近 ( 豊南町東3丁目15 ) で、大坂天神橋から能勢郡吉野へいたる古代以来の道「吉野<ruby>嶺道<rt>みねみち</rt></ruby> ( 古能勢街道 )」を、対岸の旧十八条村(大阪市淀川区)との間をつないでいました。江戸時代の旧小曽根村の記録に、渡し舟のほか、<ruby>過書船<rt>かしょぶね</rt></ruby>・<ruby>伏見船<rt>ふしみぶね</rt></ruby>・<ruby>屎船<rt>しもごえぶね</rt></ruby>・諸荷物問屋などが見られ、人・物の移動で賑わった。農産物や勝尾寺参拝者の輸送が代表的なものだそうです。 [![目いぼの渡し碑②size320](images/ha00100/T_00100330_000001.jpg)](images/ha00100/T_00100330_000001.jpg) 場所:豊南町東3丁目15 『めいぼ橋欄干』 この欄干は、昭和10年(1935)廻船業を営んでいた地元の旧家が発起人となって整備した時のもので、<ruby>擬宝珠<rt>ぎぼし</rt></ruby>部分のコンクリートには主要な積み荷であった石炭が混ぜ込まれているとか。かっては、吹田側からの排水を流す水路が通っており、渡し場を使う人も物もこの水路を渡る必要がありました。水路を渡る橋は江戸時代からあったと考えてよいそうです。小曽根郷の排水と二本の水路があり、並行して天竺川を<ruby>伏越<rt>ふせごし</rt></ruby>し庄内下水処理場付近まで流れ、神崎川に落としていたそうです。洲到止八幡宮の境内に、昭和初期の洲到止八幡宮付近の地図 があり、地図の下部に小曽根の水路と吹田の水路が描かれています。 [![目いぼ橋欄干②size320](images/ha00210/T_00210490_000001.jpg)](images/ha00210/T_00210490_000001.jpg) 場所:豊南町東3丁目14.15 大島町の八幡宮神社前信号の傍に大嶋鳩恩会が建てた「吹田 小曽根水路の終点 1935年 ( 昭和10年 ) まで洗い物をした ( 2016年再建 )」と書いた碑があります。 [![吹田小曽根の悪水路②size320](images/ha00216/T_00216270_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216270_000001.jpg) 『三国の渡し碑と三国橋』 三国の渡しは近世大坂から能勢街道 ( 旧能勢街道 ) 神崎川にあった渡しで、摂津西成郡蒲田村・新在家村 ( 大阪市淀川区 )と豊嶋郡菰江を結んでいました。「寛保元年(1741) 、三国渡シ年代記」を筆写されたものが、旧三屋村に残されており、 文禄 2年 ( 1593 ) から寛保年間 ( 1741~1744 )の、三国の渡しの由来や様々な記録があるようです。「文禄 2年太閤秀吉の朝鮮侵略とかかわる名護屋行きの船の加子 ( 水夫 ) をつとめた。帰ってきたときに「御公儀様(秀吉)」が渡し舟を作ってくれた。給料として一つの渡し場に米20石もくれた」など。 三国川 ( 神崎川 ) には古くから橋が架けられ『文徳実録』の仁寿三年(853)九月一日の条に橋が不通になったと記されているとか。南北朝時代の<ruby>康安<rt>こうあん</rt></ruby> ( 北朝の年号 ) 元年( 1361 )12月、南朝方が20日間足らず京都を奪還した。<ruby>正平<rt>しょうへい</rt></ruby> ( 南朝の年号 ) 17年 ( 1362 ) 神崎橋付近で両軍が衝突し南朝方が、神崎橋より進軍しようとするが焼き落されて渡れず、「・・・是ヨリ<ruby>廿餘<rt>にじゅうよ</rt></ruby>町上ナル三國ノ渡ヨリ打渡シテ、・・・」と太平記にあり、三国の渡しを使ったようです。 補足 〇 神崎橋は大正末期になるまで架橋されなかった。( ルート41 大坂伊丹線が淀川区加島から尼崎西川に渡る橋が神崎橋です ) 〇 古能勢街道(吉野嶺道)の起点は大阪天神橋。旧能勢街道の起点は大阪高麗橋。二つの道は岡町付近で合流。 [![三国の渡し碑②size320](images/ha00216/T_00216040_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216040_000001.jpg) 神崎川左岸(<small>川下に向かって</small>)にあり大阪市が設置したものです 『三国橋絵図』 橋架渡に関しては明治 4年 ( 1871 ) 1月太政官布告で、個人または組織で橋を架けた場合、年限を決めて通行料を取ることが認められていた。明治6年に「三国渉船株」を所持する四人が発起人となって「常水中抜橋」を架けたのが最初で、この絵図は明治10年 ( 1877 ) 10月には本格的架橋を三屋村五人・対岸の西成郡蒲田村五人に発起人を増やして、府に出願しときに提出されたもの。明治11年 ( 1878 ) 4月1日に新橋が落成した。 [![三国橋絵図②size320](images/bg00216/T_00216030_010001.jpg)](images/bg00216/T_00216030_010001.jpg) 「豊中市教育委員会所蔵」(二次利用不可) 『神崎川旧堤防の跡碑』 神崎刀根山線側の八幡宮神社前信号の傍にある。 [![神崎川堤防跡碑②size320](images/ha00216/T_00216120_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216120_000001.jpg) 『洲到止の浜跡碑』 農産物を積み出した船着き場です。 荷運びが牛馬であった時代、効率の良い水運の便が大きな意味を持った。江戸時代の旧洲到村の記録に「<ruby>御蔵米払方大坂尼崎迄津出<rt>おくらまい はらいかた おおさか あまがさき つだし</rt></ruby>」「<ruby>百姓菜 (屎) 手御極印船五艘、其外嶋通小舟御座候<rt>ひゃくしょうな しもごえ ておんごくいんせん ごそう そのほか しまかよいこぶね ござそうろう</rt></ruby>」などとあり、古くから年貢米・野菜が船積され、肥料に使われる大坂の町の<ruby>屎尿<rt>しもごえ</rt></ruby>が降ろされていたことがわかります。周辺の川底は土砂の堆積で浅くなっており、あまり大きな船は通行できませんでした。 [![洲到止浜跡②size320](images/ha00216/T_00216140_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216140_000001.jpg) 場所:大島町3丁目6 『洲到止渡し場の跡碑』 渡し場はもとは洲到止八幡宮の南側、用水路を板橋で渡ったところにあったと伝わっている。対岸の旧三屋村 ( 大阪市淀川区 ) からは、大坂 ( 高麗橋 ) と西宮を結ぶ中国街道に出ることができた。天明 3年 ( 1783 ) の旧洲到止村記録に「脇道渉シ場」が記されているが、船着き場は地形の変化に合わせて移動していた可能性もあるとのこと。 大正 9年 ( 1920 ) 阪急神戸線が開通し神崎川駅が出来たためここに移り、昭和10年(1935)神洲橋の完成で公設の渡し舟は廃止となった。 『神洲橋竣工記念碑』 阪急神戸線の神崎川駅を出て、神崎川に向かって進むと川の手前にこの碑がある。 [![神洲橋竣工記念碑②size320](images/ha00216/T_00216390_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216390_000001.jpg) 『神洲橋竣工記念碑 碑文』 [![神洲橋竣工記念碑②size320](images/ha00216/T_00216380_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216380_000001.jpg) [![洲到止渡し場跡碑②size320](images/ha00216/T_00216130_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216130_000001.jpg) 場所:大島町3丁目10 『庄本浜船着き場跡・常夜燈』 猪名川に、昭和の初めに橋が架けられるまで、対岸の戸ノ内 ( 尼崎市 ) へは船で渡っていた。 [![昭和初期の椋橋②size320](images/bg00216/T_00216280_000001.jpg)](images/bg00216/T_00216280_000001.jpg) 昭和初期の椋橋 「豊中市提供」(二次利用不可) 宝永 4年 ( 1707 ) の庄本村の記録に現れるこの渡し場は「津戸の中道」、地元では京街道と呼ばれ古くからの道の上にあります。高槻芥川・吹田・西宮をつなぐ中継地として、往来も多かったと推測できるとのこと。 能勢方面の薪・炭 ( 菊炭 )・多田銀銅山(<small>豊臣領地から幕府の管理となる</small>)の鉱石・池田や伊丹の酒、船積み荷物の中継地として使われました。天明4年(1784)幕府から猪名川の通船が許可される。 灯籠にある「金毘羅大権現」は、インドの神・<ruby>宮毘羅<rt>くぴら</rt></ruby> 大将 ( 薬師十二神将の一つ ) のこととされ、讃岐松尾寺の守護神として勧請されて後、海上守護の神として回船業者や問屋の信仰を集めるようになった。 [![庄本浜船<ruby><rt></ruby>着き場跡・常夜灯②size320](images/ha00216/T_00216150_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216150_000001.jpg) 場所:庄本町1丁目14 『利倉の渡し』 ガイドブックには載っていませんが、郷土資料館の常設展示に、利倉の渡し、が書かれた地図があります。 豊中市の地図を見ると、利倉西 1・2 は、猪名川の西に在ります ( 昭和42年湾曲部を直線化 ) 。 阪急バスで ( 庄内駅前バス停~利倉西バス停 ) 行って見ました。 豊中百景の12頁に「弥生文化遺跡の宝庫といわれる猪名川流域。・・・」「利倉西には旧猪名川の堤防を利用した自然散策歩道が整備されています。・・・」とあります。 散策すると、バス停の近くに « 船詰神社 » がありました。交通神社と言われたりしているようです。 主祭神は<ruby>鳥之磐楠船命<rt>とりのいわくすふねのみこと</rt></ruby>。「古事記の国譲り神話にある<ruby>建御雷之男神<rt>たけみかづちのお</rt></ruby> が地上に遣わされたとき<ruby>天鳥船神<rt>あめのとりふね</rt></ruby>(主祭神の別名) に乗って大国主命の元へ向かった 」その神様だそう、驚きです。 その昔、猪名川と神崎川が合流する辺りに <ruby>« 河尻泊 »<rt>かわじりのとまり</rt></ruby> « 神崎の津 » もあり、水運の賑わいがあったからでしょうか。 [![船詰神社②size320](images/ha00216/T_00216250_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216250_000001.jpg) 船詰神社     利倉渡は、豊嶋郡誌に「利倉村ノ西ノ藻川ニアリ河辺郡富田村ニ渡ル」。 池田川(猪名川)の様子を「源ハ・・・伊丹川ト名ク 下流二派トナル 」 共ニ大河ニ入ル  「東西ヲ藻川ト云ウ 西東ヲ猪名川ト云ウ」 「当郡ノ西ノ界タリ 然ルニ古来此川ノ 変迂スルコト一ツナラス 郡界モ亦古ノ如クナラス」と記されています。 河川は蛇行するし、村の広さや狭さも変化すると考えると、「利倉渡」の特定は叶わぬようです。 [![利倉橋②size320](images/ha00216/T_00216240_000001.jpg)](images/ha00216/T_00216240_000001.jpg) 利倉橋 ( 猪名川右岸で撮る ) 以上

掲載日: 2024-08-10 (C135)