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溜池の移り変わり
旧熊野田村の三つのため池をもとに = 溜池の移り変わり = を紹介します。 その昔、豊中北部 ( 丘陵 ) は、ため池がなくてはなりませんでした。 それは、農業・農地の拡大にとっても必須な事でした。 市史には「 ・・明治18年~26年の地形図によると、現在の市域には大小合わせて100カ所を超えるため池があった。北部丘陵地の池は、U字形やV字形が多く、谷をせきとめて造ったことが推察される。・・(新修豊中市史・自然) 」と書いています。 時代が進む中で「溜池」は、道路・住宅地・学校・市民病院・市民会館・市役所・公園など姿を変えています。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217830) 堀田公園にある堀田池謝恩碑 上野東・東豊中町を散策していた時、堀田池謝恩碑・二ノ切池謝恩碑にであった。 碑文に、「享保11年 ( 1726 ) に、大普請が行はれ年間千余人を以って三年間の労苦の果てに竣工した」と書いています。同年の熊野田村の「勘定目録」に「辰巳牛三年」に渡って「上池・堀田池・西谷池」の「普請人足三千弐百七拾人之飯米」を手当てした記録があります。(豊中市史 資料編4) 堀田池は道路になり一部公園として、二ノ切池はプールが作られ一部が残る。西谷池は東豊中小学校に姿を変えています。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217840) 二ノ切池 縁起 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217850) 二ノ切池(上池) 二ノ切池には、二ノ切バス停(阪急バス)で下車。 道沿いに信号をこえて進み、マンションを過ぎた所に土手が迫ると階段が見える。道路は、上新田に向かって登っていく状態です。道路の東側には天竺川が流れている。場所は、東豊中5丁目37。 国土地理院のホームページで、1936 ( 昭和11 ) 年~1942 ( 昭和17 ) 年の空撮写真を見ると、池の周りに住宅などは写っていません。 「二ノ切池謝恩碑」があり、裏面に縁起が書かれている。 縁起には、池の造成年代は不明ですが、「・・応永8年 ( 1401 ) には、熊野田村 公田 10町歩と記録あり。・・」村が存在していた時期を知ることが出来ます ( 豊中市史 資料編2 ) 。池の大普請を行った時期は堀田池謝恩碑と同じ年限が書かれています。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217860) 二ノ切池は、旧大阪環状線(R2)の北側にあり、北東から南西に伸びています。しかし斜面上にあり、その標高は南側が低くなっています。南西端から池の堤防に上がって謝恩碑を見た わけだが、斜面にある二ノ切池の普請は大変だっただろうなぁと思った次第。 溜池の作り方を探していると「とよなかの史跡・余話」にであった。 「・・・溜池の心臓部は築堤である。まず堤防の真ん中を赤土に粘土を混ぜた土で突き固める。それを「鋼(はがね)」と呼ぶところもあるが、その上にまた赤土を被せて側を固め、囲い堤防にしていく。築堤やその補修管理は、人力によるたいへんな作業であった。・・・」と書いている。 溜池を作るもの、維持するのも、私たちには想像できないが、先人に感謝したい。 資料 〇 「豊中の環境の現状と課題」 1989年(平成元年)12月 豊中市 〇 「豊中の日」に堀田池謝恩碑の文面が掲載 〇 「研究紀要94号 聞き書き 水とくらし」平成6(1994)年1月 に縁起の全文が掲載 67~70頁 豊中市立教育研究所 〇 豊中市大字小字図 4 ( 新修豊中市史 第一巻 通史 付図 ) 小字 二ノ切 に、池の名前は「上ノ池」と書かれている。 〇 「とよなかの歴史・余話」-水とくらし・街道など 2011(平成23)年7月 著:瀧健三
掲載日: 2025-08-03 (C135)