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ラヂオ塔 て ナニ
大正14年(1925)にラジオ放送が始まった。 そして、ラジオ体操が始まったのは昭和3年(1928)11月。当時の逓信省簡易保険局が健康増進事業「国民保険体操」としてはじめ、普及に努めたとのことです。資料⑦ 今年令和7年(2025年)は、ラジオ放送が始まって100年にあたります。 ラジオの普及を目的に、昭和5年(1930)に天王寺公園に全国で最初のラジオ塔が、日本放送協会関西支部寄付で造られたようだ。当時ラジオは高価なものであり、放送を公衆が聴取できる施設が必要とされたことから各地に広がったようだ。 その設置目的は「一般ノラヂオ知識普及ヲ図ル」「民衆ニ対スル教化、慰安、報道ノ使命ヲ如実ニ示ス」ことのようだ。資料①② 放送内容は 「教化」ー 子供向け番組を含む 「報道」ー 相場、ニュースなどの報道 「娯楽」ー 和洋の音楽、落語、講談、演芸 ラジオ体操 ー 学校向け・一般大衆 ラジオ塔の形・規模は様々なようです。 ちなみに、昭和7年(1932)に大阪放送局が実施した分布状況では、「・・阪急沿線岡町、豊中は文化住宅地と言われるだけあって3000余の戸数に対して1883のセットがあった。豊中町では100世帯当たり62台の普及率。100世帯当たり大阪市が25台、京都市が21台、神戸市は20台・・(抜粋)」とある。資料③ 先ずは、ザックリとした時代背景を記します。 大正時代は、第一次世界大戦があり関東大震災もありました。治安維持法成立。 昭和時代になると、世界恐慌が始まる、第二次世界大戦勃発。満州事変、日中戦争、ハワイ真珠湾攻撃(昭和16年)。国家総動員法成立。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私が知っているラジオ塔を紹介します。 箕面市のラジオ塔 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00218410) 瀧安寺境内に在るラジオ塔 (2025年9月21日撮影) 箕面大滝につながる「滝道」の途中にある、瀧安寺の山門を入ると案内所があり、その傍に手水舎(水龍吐)の後ろ奥にラジオ塔が在る。「 JOBK 」のコールサインが書かれていたが、建設年代は記されていない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 豊中のラジオ塔は、大曾公園と大塚公園にあった。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217940) 大曾公園建設記念碑 = 北桜塚4丁目 = 撮影日:2025(令和7)年1月9日 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217940) 大曾公園建設記念 背面 市制 初代市長 中川種治郎氏の名が記されている。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217940) 大曾公園の標柱 (下部の写真も同じ標柱です) [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217940) ラジオ塔土台部分が残されており、大阪中央放送局と書かれている。 私は、ラジオ塔の情報がないか文書館に尋ねた。申請書を書いて得た文書に、大阪中央放送局から市長あてに「・・ラジオ塔用の受信機を寄贈申し上げる・・(昭和14年11月29日日付)」の申し入れがあり、大曾公園建設の資料にラジオ塔・国旗掲揚台が記されている。大曾公園・ラジオ塔・国旗掲揚台も昭和16年(1941)に建設された事が判った。資料⑩ 下記写真の左上部にある、小さな三角屋根の付いた柱が写っているが、これがラジオ塔の全体像です。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00218430) 大曾公園で行われた、市民厚生大運動会 ( 昭和18年頃 ) の写真です。資料④ 厚生運動とは市史によると、「・・昭和17年に開催された第二回豊中市市民厚生体育大会のプログラムを見ると、各町内会ごとに選ばれた選手によって、14種もの競技と演技が行われた。武装競技、海軍体操、防火競争という戦時色濃い演目が連なっていた・・」 と書いている。資料⑤ 前出の入手資料によると昭和17年のプログラムには、演目の最初と最後に合同体操の文字があり、ラジオ体操(ラジオ放送の)と言えないかもしれませんが、体操が行われたようです。資料⑪ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大塚古墳のある、大塚公園 (中桜塚4丁目15) にラジオ塔付の小舞台が昭和18(1943)年4月に造られた。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00218130) 大塚公園 ラジオ塔 戦時中は、指揮者が舞台に上がりラジオ体操指導したとのことです。「八紘一宇」の文字も刻まれていたようです。資料⑥ このラジオ塔には、ラジオの機器は無かったかもしれません。当時、金属類回収令が出されており、金属資源の供出が求められたからです。お寺の鐘や学校の金属製の門や家庭の金属も供出されたようです。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217930) 大塚公園ラジオ塔の舞台裏面にはめ込まれていた、第一土地区画整理組合記念碑 ( 昭和18年4月建之 )。 現在の大塚公園の銘板裏にはめ込まれている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和17年(1942)、18年(1943)頃の風景 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00005143) 昭和17年頃の写真。場所は不明ですが、戦時中の18人乗りの阪急バスで、燃料は木炭です。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00005153) 昭和18年頃の写真。豊中高校の運動場で、戦時中の滑空班による滑空訓練の風景です。 [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00005244) 昭和18年~20年頃の写真。蛍池東町の収穫風景ですが、多くは女性で男性は4人ぐらい写っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和20年(1945) 4月米軍沖縄本島上陸。6月・7月豊中市域空襲を受ける。8月広島・長崎に原子爆弾投下。 ポツダム宣言受諾決定、終戦の勅書放送。 この年の3月に市立図書館が市役所教育課内に開設 豊中市への空襲は、大小六回あり、昭和20年6月7日・15日・26日の三回の爆撃が特に深刻な被害をを与えた。「死者575人、重傷307人、軽傷5887人、行方不明17人、全焼全壊2004戸、半焼半壊967戸、被災者12,588人」の大きな被害であった。資料⑧ 下記の「憶念碑 (オクネンノヒ)」は、昭和20年(1945)6月7日の爆撃で学徒動員先の三国航空機で亡くなった豊中中学校(現府立豊中高等学校)20期生9人と引率の先生1人を追悼するために建てられたものです。資料⑨ [](images/bg00218/T_00218440_000001.jpg) 「憶念碑 (オクネンノヒ)」 岡上の町4丁目 撮影日 2025年10月14日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00218420) 戦前の家庭用ラジオ (豊中市郷土資料館・展示品) [](https://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00218420) 資料 ① 論文「天王寺公園のラジオ塔」人見佐知子 近畿大学民俗学研究所 民俗文化№32 ② 「昭和十六年 ラヂオ年鑑」社団法人 日本放送協会 発行 ③ 新修豊中市史2巻 425頁 ④ 「豊中市勢要覧」1943(昭和18)年3月16日 豊中市役所発行 ⑤ 新修豊中市史11巻 98頁~100頁 ⑥ 「とよなかの史跡巡り(岡町・豊中・刀根山・熊野田・曽根・服部・庄内方面)」瀧健三 編集・発行 2008(平成20)年3月 ⑦ 「文化財ニュース 豊中」№45 =道具の横顔 4= 令和7年(2025)9月30日 発行 ⑧ 新修豊中市史 通史二 豊中の空襲 ⑨ 「とよなか歴史・文化財」ガイドブック」26頁 令和7年(2025)3月31日 第3版発行 ⑩ 「(S12・13・15)都市計画関係」・「昭和16年中 豊中市事務報告書及び財産表」豊中市文書館蔵 ⑪ 「豊中市公報 83号」昭和17年11月5日 豊中市文書館蔵
掲載日: 2025-11-30 (C135)