不思議な道標・大神様道

小曾根の渡し場 ( 目いぼの渡し ) 碑から、高川右岸堤防を北に向かって散策した時の事を書いてみます。 下高川橋西詰付近 ( 豊南町東2丁目 ) に、〝 大神様道 〟 と彫られた道標が在ります。 この道標は何だろう、他の道標とは少し違うなァと思いました。  ↓ 南面に「大神様道」と彫られている [![大神様道 (道標)size320](/dbs/images/bg00213/T_00213330_000001.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213330_000001.jpg)[![大神様道 (道標)size320](/dbs/images/bg00213/T_00213330_030001.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213330_030001.jpg)  ↓ 西面に「ソコノ向側」と彫られている         ↓ 東面に「大正五(1916)年十月」と彫られている [![大神様道 (道標)size320](/dbs/images/bg00213/T_00213330_010102.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213330_010102.jpg)[![大神様道 (道標)size320](/dbs/images/bg00213/T_00213330_020202.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213330_020202.jpg) 撮った写真では、北面の文字が読めませんので、書くことにします。 北面は「渡し場青年會建之」と彫られています。 この道標は、大神様に行くのに、このまま北上するのか、斜面を下りるのか、その方角を示すものがない。唯一西面の、 〝 ソコノ向側 〟なのに、斜面に立たないと読むことが出来ない状態です。 これが一番の疑問。 そこで、おなじ高川右岸堤防で、高川橋を過ぎて名神高速道路が高川と交差する地点の手前に「 古勝尾寺道 道標 」(小曽根3丁目、堤防西側斜面)があるので見に行きました。 [![古勝尾寺道 道標size320](/dbs/images/bg00213/T_00213380_000001.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213380_000001.jpg)[![古勝尾寺道 道標size320](/dbs/images/bg00213/T_00213380_020001.jpg)](/dbs/images/bg00213/T_00213380_020001.jpg) これを見ると、道標は、そもそも分岐点にあり、それぞれの行き先を示すものである事が判ります。 とすると、〝大神様道〟の道標は、 一つ 右岸堤防を北上する為の情報が欠けている。 二つ 斜面を左に下がるのかどうか不明確です。 私は、〝 大神様道 〟の道標は、遠方に人を導くものではなく、現代の看板にも「・・・右へ3メートル 」とある様なもので、この近くに道標の造立を必要とする要因があったのではないかと考えました。 そんな折、高川小学校30年史が参考にした資料に、『 昔の渡し場 』・榎原實 著の記述を見つけました。 『 昔の渡し場 』に、〝・・・病気の治療に加持祈祷も盛んに行われた・・・村 ( 渡し場 ) から北に300mほどの所に大神様と呼ばれた祈祷師のおばあさんが住んでいた・・・〟の記述がありました。 私の結論は、大神様道の道標は、遠方に行く人を導く為のモノでなく、大神様はここですよと、示す・誘う⁉ 現代の看板の効果を求めたものだと考えます。『 昔の渡し場 』の記述を参考にすると、道標北側の斜面を下りた付近に大神様と呼ばれた祈祷師(おばあさん)が居られたのでないか、と考えている次第です。 想像になりますが、道標の場所の移動もあったかもしれません。 しかし、当時の生活の一端を記録したものとすれば、この道標は貴重なものかもしれません。 この道標は大正五年に設置されたが、明治・大正頃の病気や対策はどのようなものか、市史を探してみました。 私の印象は、時代は祈祷から予防にですが、伝染病に対する不安・恐れは心の中にあり、渡場青年会の人たちに道標を建てさせたのでしょうか! 市史の一部を抜き書きして、ブログを終わります。 〝病気の種類〟「天然痘・コレラ・ぺスト・腸チフス・赤痢・ジフテリア」など。 〝原因〟「コレラは江戸時代から何度も流行・・・外国船の寄港地、とりわけ長崎から入るものが多く、・・・明治十年(1877)西南戦争が終わり、各地へ兵士が帰還し始めると、彼らとともにコレラが広がり始めた。・・・明治十二年から十三年にわたるさらなる大規模流行の際には、豊島郡では五十四カ村に蔓延し、桜塚村にもコレラ患者が発生・・・」。 〝対応策〟「・・・しかし、明治十年の明治最初のコレラ流行以来、至急の処置と介入が避けられない伝染病の際には早くから警察が監督および実務を担っていた。・・・」「・・・村民に清潔な環境の維持と予防注射の医学的効用など普段の衛生思想が十分浸透して初めて伝染病の撲滅も可能となる。そのための「衛生談話会」が村々で開催されているが、その招集母体が衛生組合である。・・・」 ・・・大正五年(1916)を最後に、さすがのコレラ猛威も医術の発達と検疫規則の完備により鎮静化してきているが、なお腸チフス・赤痢・ジフテリア、それに眼病トラホームの蔓延など伝染病は次々と種類を変えて流行した。・・・ 〇 衛生警察 (明治八年(1875)三月制定 行政警察規則) 〇 明治三十年(1897)公布の伝染病予防法で衛生組合の設立を法的に制度化 〇 大正元年(1912) 七カ村(小曽根含む)衛生組合立伝染病院を豊中村大字桜塚に開設 (新修豊中市史 通史2 一章三節 伝染病予防と衛生行政 88頁・三章三節 衛生・医療施設 水と衛生 330頁) ( メモ1、第一次世界大戦(大正3年~大正7年)の頃、通称スペイン風邪が世界的に流行した。市史に記載は無い) (メモ2、東京朝日新聞 大正5年10月1日の縮刷版にコレラの感染者数が記されている。大阪は、新患者16、累計1696)

掲載日: 2022-08-08 (C135)