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お地蔵さまの話題(2) 明治初期の受難
お地蔵さまと言えば、路傍に祀られて多くの人の信仰を集め大切にされていますが、150年ほど前の明治初期には信仰や風習が軽んじられ、路傍から撤去されうち捨てられるという、大変な受難の時期があったと言います。 明治初年(1868年)に、神道を国教化するために出された「神仏分離令」により、江戸時代までの「神仏習合」が否定され、仏教排斥の動きが起ります。特に「廃仏毀釈」と呼ばれる過激な活動においては、寺院や仏像、経典などが破棄されるに至り、お地蔵さまもその被害に遭いました。 明治4(1871)年に京都府から出された布達では次のように命じられました。(原文を要約し口語訳しました) 「京都府の町々では大日如来や地蔵菩薩を町中に祀り、無益に米銭を寄付し、時として多人数集会参拝し無用に時日を費やし諸人を惑わすこと奇怪の至りなり。根拠の無いことであり、邪説で人を惑わし世の妨げを為すと言うべき事なれば、今後は停止し、堂・祠・偶像等は早々取り除くべきこと。ただし堂その他売却できるものは代金を小学校へ寄付すべし。石像など売却できないものは同じく小学校へ取り片づけるべきこと。」 ずいぶん厳しく一方的な通達ですが、文明開化の頃の政府の意気込みと姿勢が感じられます。 同様の通達は、明治5(1972)年に大阪府、明治6(1873)年に兵庫県でも発布されており、全国的な動きでした。 町々の路傍を追われ、行き場のなくなったお地蔵さまは、小学校ばかりではなく寺院にも持ち込まれ、京都では壬生寺にお地蔵さまの石仏が数え切れないほどたくさん集められてまるでピラミッドのようにそびえているのをご覧になった方もおられるでしょう。 また、お地蔵さまの石仏がすべて撤去されたわけではなく、町内の篤志の方の自宅に保護され、地蔵盆のときだけ町内の集会場所に持出されてお祭を行ったということもあったようです。 その後時代が変わり、地蔵盆も広く復活するようになると、また旧市街の街角にお地蔵さまの祠が復活していったのだと思われます。 一方、豊中ではどうだったのかというと、明治初期には、大阪や京都の都心部と比べて人口もそれほど多くなく、都市化も進んでいませんでしたので、このような通達によるお地蔵さまの受難はなかったものと推察されます。(明治初期には、能勢街道沿いの岡町のみが商業地域として発展していたが、その他の地域は農村の小さな村や集落が散在するのみであった。) しかし、昭和30年代(1955年~)以降の住宅開発ブームで、市の全域に住宅地開発が進み、土地区画整理事業、道路整備などが進行するにつれ、それまで路傍で祀られていたお地蔵さまが移設や撤去を余儀なくされる「新しい受難の時代」が訪れることになりました。その結果、もとあった場所から移設されたり複数のお地蔵さまを集合したりして現在の状態になっていると思われるものが少なくありません。 (豊中の都市化の進展とお地蔵さまの変化については、別途テーマを設けてブログに書く予定です) このブログを書くに当り、次の書籍を参考にしました。 「京都 地蔵盆の歴史」村上紀夫著 法蔵館発行 「大阪のお地蔵さま」田野登著 渓水社発行 【お地蔵さまブログの全体リストはこちら】 https://hokusetsu-archives.jp/cms/ozizousama/blog
掲載日: 2022-06-01 (C137)