野田の堤の北側は、どの様な環境に在ったか。

私たちは、昨年、野田の堤を散策しました。 豊中市立 野田小学校 (旧 )は野田堤の北側に建っています。同校の記念誌を見ると、「・・・青い葦の茂っていた沼地が埋め立てられ、白い鉄筋の校舎が、広々とした田んぼの中に姿を見せた・・・」とあります。 ( 昭和34 ( 1959 )年4月開校・創立30周年記念誌 ) 私は、野田の堤北側の地が、どの様な環境・機能があったか興味をもちました。 同じ場所も、時代とともに自然環境や、その場所の重要度も変化すると考え、豊中が農村だった頃の情報を、新修豊中市史などを探してみた。 農業にとって、水の確保と地形は重要な要素です。市史(三巻自然)の 地形の概況に、「・・南部の低地では標高が10m以下である。現在の豊中市の地形で標高の最高点は、新千里北町2丁目付近の千里緑地が分布する尾根部にあたり、その標高は133.79m。また最低点は、南部の神崎川沿いの低地で高度0mとなっている。・・」  地形区分に、「・・西大阪平野・・豊中市の南部はこの平野に属しており、この付近は神崎川の氾濫原にあたり、・・」と記している。(参考資料①) 穂積村囲堤と野田輪中堤は共に、西大阪平野にあり、天竺川・猪名川の決壊・溢水、上郷から流下する水 ( 排水・雨・台風 ) の影響を受けてしまいます。 下記の絵図は、元和2年 (1616) ごろの、庄内地域を描いたものです。 [![椋橋庄②size320](images/lb00215/T_00215590_000001.jpg)](images/lb00215/T_00215590_000001.jpg) 絵図の説明を転記 「元和 2年 (1616) 摂州豊嶋郡椋橋庄御料私料入組村々絵図 原田郷中倉村文書」 写真提供「豊中市文書館」 旗本大嶋雲八光政が、あてがわれた知行所で検地を行った際の絵図と思われる。幕府領が各村に組み込まれ、周辺村々には大阪城代・定番の諸大名の名も見えるなど、江戸初期の所領配置を詳しく伝えている。」(参考資料②) 吹き出しの「村名」は、筆者が加筆した。 椋橋庄の村々の絵図 ( 庄内地域 ) です。この絵図では野田村・島田村の北側に用水池があり、島田村を過ぎた辺りから猪名川(絵図の池田川)に排水するように描かれており、貯水、排水の機能が在ったことが分かります。 村の石高や用水に関わる事が書かれた、宝永四年(1707)「庄本村・島江村・菰江村・牛立村・三屋村・野田村・島田村七カ村明細帳」(参考資料③) から用水路に関係する記述を探すと、 136頁 (野田村) に、 外ふけ に約 950mの堤が在ることが記載 ( 外ふけ 堤長五百弐拾三間 高弐間 根置七間弐尺五寸 馬踏壱間半 )。 137頁 (嶋田村) に、約 618mの堤が在ることが記載 ( 堤長三百四拾間 高壱間五尺 根置七間壱尺 馬踏壱間弐尺)。 138頁 (小曽根郷) に、外ふけ と呼ばれる所に水溜があり、村々が用水を採っていると、書いている ( 用水井堰之儀、豊嶋郡上津嶋村領池田川筋関留、外ふけと申所<small>ニ</small>水溜置、村々用水取申候、・・)。 寛政四年(1792) 「摂州豊嶋郡庄本村諸色附込帳」 152頁 (庄本村) に、 水溜壱ケ所 十ケ村立会 右水溜之儀者穂積村領・嶋田村領・野田村領入組之所<small>ニ</small>御座候<small>ニ</small>付、間数相知不申候 」 まとめると 野田村・島田村には合計約 1568m 堤が築かれており、野田の堤と穂積囲堤に挟まれた場所は、用水池・貯水池であることが広く認識されていたことが分かります。   〝重要度について〟 野田の堤の北側は、少なくとも、17世紀・18世紀は貯水池で在った事は、ほぼ間違いないと言ってよさそうです。 〝自然について〟 「新修豊中市史 第五巻 古文書・古記録」には、摂津・河内の河川や池が描かれた、17世紀前半(推定)の絵図が掲載されています。絵図の真ん中辺りに、穂積村囲堤が描かれ、囲堤の南側に河川が書かれています。 上記の、河川絵図と関係するかは、ともかくとして、下記の資料もありました。 ☆ 参考資料⑥では、「天竺川が現在の川筋になったのは、今から650年前頃と考えられています」と書いています。 ☆ 古天竺川が、現在の流路の西側を流れていた、と書いているので抜粋します。 「大阪府指定史跡 春日大社南郷目代 今西氏屋敷」(参考資料⑤)では、135頁・136頁に「・・・また「文治五年(1189)田畠取帳」における「川」・「溝」の記載を見ると、第24図のように旧天竺川が南条六条一里二坪から流路を変更し、市庭の東側となる同十坪、十五坪、二二坪、二七坪、三二坪、同二里三坪を通り、同二里四・九坪でまた南西に向きを変えて、字「鯉ケ淵」に合流することが確認できる。字「鯉ケ淵」は、穂積村囲堤と野田・島田をつなぐ堤に挟まれた巨大な湿地帯であり、住宅開発が進むまで天竺川の遊水地として利用されていた。湿地帯は、その規模から神崎川の旧河道となる可能性が高く、周辺の試掘調査でも、重機の掘削限界まで湿地状堆積が確認されるだけにとどまる。・・」 ○「外ふけ(外不毛)」「鯉ケ淵」「外深」は、昔の字名です。大字小字図 7 (参考 資料④ )をご覧ください。 私の疑問は、明らかになったので、ブログを終わります。 参考資料 1、「新修豊中市史 第三巻 自然」豊中市 図 2-11 地形区分図 頁33 2、「新修豊中市史 第五巻 古文書・古記録」豊中市 口絵 元和2年(1616) 摂州豊嶋郡椋橋庄御料私領入組村々絵図」原田郷中倉村文書 3、「村明細帳 (下) 豊中市史資料集 4」豊中市 4、「新修豊中市史 第一巻 通史一」豊中市 付図Ⅰ 豊中市大字小字図7 5、「大阪府指定史跡 春日大社南郷目代 今西氏屋敷 豊中市文化財調査報告書 第57集」 6、「国指定史跡 春日大社 南郷目代 今西氏屋敷」―今にいきづく中世荘官屋敷―  豊中市教育委員会 平成25年(2013)発行 のパフレット 7、「大阪府指定史跡 春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書」 豊中市教育委員会  8、「とよなか 歴史・文化財ガイドブック」豊中市教育委員会事務局地域教育振興室 9、「近世の淀川治水 日本史リブレット93」村田路人著 山川出版社 P45に、17世紀摂津・河内の河川図が載っている。 以上

掲載日: 2023-11-05 (C135)